給与は上げた。採用方法も見直した。それでも、またスタッフが辞めていく。何を変えればよいのかが見えないまま、時間だけが過ぎていく。そんな感覚を抱えたことのある先生は少なくないと思います。
この状況が続く原因は、雇用条件やスタッフ個人の問題だけではないかもしれません。実際には、院長側にある「当たり前」が、スタッフ側の現実とずれていることで、手段を変えても同じことが繰り返されているケースがあります。
私は院内技工士として歯科医院に入り、事務長を経て医療法人の理事として経営を担ってきました。スタッフとして働く側の感覚と、経営者として人を見ていく側の感覚、その両方を内側から見てきた立場から、この問題を整理します。
定着問題の「手段」を変える前に見ておきたいこと
スタッフが定着しないと感じたとき、院長がまず動きやすいのは、採用媒体の見直しや給与条件の変更、面接の工夫といった「手段」の改善です。それ自体は間違いではありません。ただ、院長の側の前提が変わらなければ、同じことが繰り返されやすいのも事実です。
訪問歯科では、移動時間や施設・在宅ごとの対応、外来とは違う段取りなど、入職前には見えにくい仕事が多くあります。院長が思っている業務の当たり前と、スタッフが聞いて理解している当たり前。そのズレが、定着問題の出発点になっていることは少なくありません。
ここでは、院長が無意識に持ちやすい3つの思い込みを取り上げます。
思い込み①「お金を払っているのだから、動いてくれて当然」
院長の立場からすると、「給与を払っているのだから、指示通りに動くのは当然だ」という感覚は自然です。経営者として見れば、それはもっともな感覚でもあります。
ただ、スタッフの側では少し違う見え方をしています。特に入職して間もない時期は、「面接で聞いていた内容と大きく違わないか」「この仕事は最初に想像していた範囲か」という視点で、かなり敏感に職場を見ています。
訪問歯科の仕事は、実際にやってみないとわからない負荷が多いものです。移動時間の拘束、現場ごとに違う空気、外来では発生しない準備や調整。院長にとっては日常でも、スタッフにとっては「聞いていた話と少し違う」と感じるきっかけになりやすい。
ここが曖昧なまま入職すると、スタッフは自分の経験や前職の物差しで職場を解釈し始めます。院長が想定していないところで、「前の医院ではこうだった」という比較が動き始めるのです。
その状態で退職が起きると、院長の側は「人が合わなかった」「採用手法を変えるしかない」と考えやすくなります。しかし実際には、人の問題というより、最初の認識合わせが甘かったということもあります。
思い込み②「ビジョンと給与を整えれば定着する」
「給与も悪くないはずだし、医院の方針も伝えている。それでも辞める」——これは多くの院長がぶつかる壁です。
もちろん、ビジョンに共感して人が集まることはあります。ただ、院長と同じ熱量をスタッフ全員に求めると、かえって疲弊を生むことがあります。
スタッフにはスタッフなりの「ここは越えたくない」というラインがあります。退勤時間、業務密度、休みの取りやすさ、家庭との両立。院長から見れば些細に思えることでも、定着にはこうした要素が大きく関わっています。
院長が「もっと良くしたい」と思って動いていることが、スタッフには「また変わるのか」「今でも手一杯なのに」という負担感として届くこともあります。これは院長の姿勢が悪いという話ではありません。そもそも見ている場所が違うのです。
さらに、院長の姿勢は想像以上にスタッフへ伝わっています。院長が何を大事にしているかだけでなく、「誰を見ているか」「どこまで現場を見ているか」まで含めて、スタッフはかなり敏感に感じ取っています。だからこそ、院長が善意で動いていても、スタッフの側では別の印象になっていることがあります。
思い込み③「ムードメーカーがいるから空気は何とかなる」
「あの子が職場の空気をうまく回してくれているから大丈夫」——こう感じることはあると思います。実際、そういうスタッフが現場を支えていることもあります。
ただ、その安心感は思っている以上に不安定です。ムードメーカーの立ち位置は、その人一人の力だけではなく、周囲のメンバー構成や関係性の微妙なバランスの上に成り立っていることが多いからです。
誰かが辞める。新しい人が入る。それだけで、それまでの空気が一変することがあります。院長からすると「急に雰囲気が変わった」と見える場面でも、スタッフの内側では、バランスの取り直しが始まっているのです。
さらに、スタッフは生活の影響を仕事に持ち込みやすい職種でもあります。院長が意識的に切り分けようとしていることでも、スタッフ側ではそうならないことがある。ムードメーカー本人の状態が変われば、職場の空気も一緒に揺れます。
つまり、誰か一人の人間性に空気を預けている状態は、安定しているようで、かなり脆いのです。
先生の医院では、当てはまることはありますか?
- 給与を上げたのに定着しなかった経験がある
- スタッフ採用の判断を、焦っている状態で行ったことがある
- 職場の空気が特定のスタッフの状態に左右されている
- スタッフが辞めた理由を、その人だけの問題として結論づけたことがある
1つでも当てはまる場合、同じ問題が繰り返される土台が残っているかもしれません。
まとめ
「お金を払えばきちんと働いて当然」「ビジョンと給与を整えれば定着する」「ムードメーカーがいるから空気は何とかなる」——これらに共通するのは、院長の当たり前をそのまま組織に当てはめてしまっていることです。
定着問題の本質は、手段の改善だけではなく、院長自身の思考の出発点にあることがあります。スタッフにはスタッフの従業員としての現実があり、院長とは違う景色を見ています。この前提を持つことが、定着問題を解く最初の一歩です。
これはスタッフを甘やかす話ではありません。スタッフを変えようとする前に、自分が何を前提にしているかを問い直す、という話です。